ガンは突如としてやってきた。それは人には抗いようのない運命!

2006年12月、腎臓癌根治手術。現在は社会復帰して何ごともなかった様に生活していますが、突然の癌宣告から手術までの熱い記憶を忘れないよう、そして同じ病に罹患した人の命の標になればと記す記録です。
あなたは人目の来場者です。

暇に任せて大酒を飲み、
不平不満で管を巻き、
頻繁に焦燥と不安に駆られる軟派な魂は、
煙草をふかして偽の安堵を得る。

小腹が空いたら無駄に飯を喰らって、
人に先んじて好んで惰眠を貪る。

そうして無駄に過ごした私の『昨日』は、
当然ながら何処かの誰かの魂魄が「生きたい」と必死に願った『明日』であったことだろう。

生きたい!という切ない思い、
生きろ!という家族の痛切な願いを感じた。

生と死の交錯するところ、
笑顔と悲痛な面持や光景がめまぐるしく入替わるところ。

そもそも病棟での入院生活とはそうしたものなのだろう。
自分が入院してはじめて知った。
気付いたら人生の中でずいぶんと権力を付けて来たもので、
そうそう人から怒られることも最近はなかった・・・。
ところが、
ひさびさに、ガツンとやられた感じ。
まさに晴天霹靂。

あの日、私は癌の宣告を受けた。

私の知らぬあいだに、
静かに、
ゆっくりと
癌は進行し続けていたのだ。

偶然に、癌は人間ドックで見つかったが、それまで自覚症状はなにも無かった。

私は、2006年末に癌(腎臓腫瘍)の部分切除手術をした。
運良く、早期発見と最新の医療技術のおかげで生き残ることができた・・・。
「癌を乗りこえた」というのは、日本語が少し変だ!
なぜなら、私は何もしていない・・・。
ただ、手術台の上で寝ていただけだ・・・
まぁ、二度とごめんの苦痛を受けたが。

ともあれ、
今、
私は、癌ではないのだ! 

生きていることはすばらしいぞ!

喉もと過ぎれば・・・、あれほどの癌の熱い記憶が日に日に薄れてゆく。
あんなに痛くて苦しんだのに・・・。

私は今を生きる喜びの源として、あの癌の記憶を掬ってみる。
そしてこの記憶が同じ病気で不安な人にも勇気を与えますように・・・!


2007.5 Starmints

starmintsについて

創部感染治療の記録

・・・なんという不運・・・男41歳・・・ど本厄とは、これほどまでやられるのか・・・創部感染症の合併症! 確率は恐らく100人に1人? 東京女子医大では「2年ぶりかなぁ・・・」と若い看護士に云われました・・・。

傷の下の方を5cm程度開いたのがこれです。このぱっくり開いた傷の中に痩孔(ロウコウ)が2箇所。お腹に向かって4cmと背中に向かって6cm位の孔(アナ)があります。泌尿器科では入院中は毎日2回朝晩、傷を見て消毒していました。傷から出る浸出液を吸い取るように(タンポナーゼ)ロウコウにもガーゼをピンセットで差込み、そしてガーゼを当てます。このとき半日でガーゼの表面に浸出液が染み出してきます。表面はアブラ取紙でガードしてテープ止め。ちなみに入院中はこれで一日5000円です。通院で同じ治療は210円です。

通院するようになって困ったのは泌尿器科の待ち時間です。わずか210円のガーゼ替えの治療に2時間待ちは当たり前・・・ 人間ドックを受けた三井ビルクリニックでそんな不満を言ったら、その場で東京女子医大の形成外科の教授宛の紹介状を書いてくれました。 東京女子医大の泌尿器科から形成外科に移るのに街場のクリニックの紹介状というのが少し笑えませんか? そして、形成外科の教授はまず ゲーベンとオキシドールでまず雑菌を殺すことから始めようと言った。

治療は写真のように、オキシドール消毒のあと、ゲーベンクリームをロウコウに綿棒で塗っていくだけ。しかし、ネットで見た夏井先生の新しい創傷治療をはじめ、ゲーベンクリームは悪名高い。 かなり抵抗があったので教授に聞いてみたが、デブリード(感染・壊死した細胞を取り除くこと)は重要でゲーベンにはゲーベンの良いところもあるとか ・・・夏井先生の湿潤療法をどう思うかと聞いたら、自分でためしても良いとのことだった。ただし、ロウコウを残したまま傷口が閉じるのはあまりよろしくないかも (中を縫っている手術糸が感染して残る場合もあるので)とのことだった。最初の2日くらいゲーベンを使ったが、自分としては確信的にそれ以上ゲーベンを使うことを やめた。

自分としては、当時、夏井先生のWEBをみて、ラップ療法を試してみたかった。傷の上から貼ったのは、三角コーナーで使う生ゴミ用のビニールである。穴の開いているあれだ。適度なサイズにカットして、綿テープで押さえる。浸出液を適度にためながら、穴から滲み出したものを・・・ガーゼか・・・コストパフォーマンスを考えて・・・↓

これだ。ちょっと抵抗があったが、吸収力とコストから、女性用のナプキンが最もいいことに気づいた。ガーゼだと、分厚くなるし、Yシャツに染み出る場合もある。難点は、Yシャツ側に引っ付いてしまうことだ・・・(笑)。
そして、これを見た教授は、診察室に、周りにいた若い先生達を集めて、「臨床の場で患者さんから学ぶことが沢山ある」というようなことを言っておられました。すこし恥ずかしかった。

傷口を早くくっつける様にと、写真のような市販の商品を買ってみた。

 

この頃だいぶ浸出液も減ってきたので、ラップ療法は市販のものを使うことにした。これなら明日からの会社生活もだいぶQOLが上がる。ナプキンじゃ剥がれて落としたりしたら恥ずかしいし、気が気じゃない面もあった。

消毒しようと思ったら、なんと、ロウコウが無くなっていた・・・写真のように肉芽が盛り上がってきていた。浸出液はまだ結構出ている。

一度閉じた上のロウコウから膿が出て肉芽が飛び出てきた。真ん中のロウコウは完全に閉じて傷も平らになってきている。上下から閉じようとしているようだ。

傷口が全体に赤みを帯びてきた。

湿潤療法の実験ついでに、市販のバンドエイドのキズパワーパッド(大判)を貼ってみたら、翌日、赤みが消えてきた。浸出液も無色透明無臭で僅か・・・。

浸出液が出なくなってから、スキントンテープ(住友3Mのマイクロポア)を形成外科で勧められた。貼り方は下の図のように、25mm幅のテープを40mm~50mmの長さに切って、3分の1を重ねながら(重ねるのは剥がす時に一気に剥せる様にするため)、傷が広がらないように引付けて貼っていくだけ。傷口は紫外線を受けると黒ずんでしまうので、それを防止する目的と、傷の瘢痕が広がるのを防ぐのに、半年くらい以上は、やっていた方が良いということだ。帝王切開のあとの妊婦にもお勧めだそうだ。

さらに半月後、スキントンテープの効き目か、傷あとの瘢痕が薄くなってきたようだ。

以上、記憶を思い出しながらなんとか書き留めてみた。参考になれば幸いである。

©2009年2月。

腎臓がんの体験記

・・・薄れゆく記憶を繋ぎ止める為のメモ

40歳以上は会社負担というので、初めて人間ドックを受けてみることにした。 土曜日も受診できるので、西新宿の会社近くの三井ビルクリニックを選んだ。このところ道交法の改正で、西新宿のビル街は路上の バイクも駐禁を取られるので、停める場所に迷ったのが記憶に残っている。バイクを気にしながら、検査は午前中いっぱいかかったが、その日のうちに、超音波の結果4cm程度の 瘤(こぶ)が腎臓にあるからと言われ、造影剤を使うCT検査での再検査を勧められた。そして2週間後のCT検査の予約をしてその日は帰った。よくある再検査さ・・・。あまり気に留めないようにつとめたし、実際深刻には思わなかった。

造影剤を使うCT検査ということで朝から絶食していた。それまではバリウムを飲むX線のときと同じ感覚でいたが、 造影剤は、子供のころ親の赤玉パンチか養命酒を盗み飲みしたときのように体が熱くなる感じだった。トンネルの中に入っていく のかと思いきや、それは後日のMRIであった。この日のうちに、「腎臓の腫瘤は予定していた良性の物ではないが、 悪性とも言い切れない」ということで大学病院での再検査を薦められた。どこがいいかと言われ国立医療センターを 思い浮かべたが、医師の繋がりがないそうで、東京女子医大を薦められた。家も近いし、名も通っているので従った。 その場で2日後の予約を取り付けてくれた。CT検査の画像もお土産に持たされた。

紹介された教授を訪ねると、CT検査の画像をみて造影剤のタイミングが合ってないので、悪性かどうかは判断できないと、 CTの撮り直しを薦められた。それでも、4cmの腫瘤は悪性ならばなるべく早くに、良性であれば急がないまでも取っておいた方が 無難なケースが多いという説明で、念のため手術日を12月28日(最短)で予約を入れてくれた。教授は落ち着いていて まだ若いのにねぇ。悪性であれば、いわゆる癌ということになります。でも、このケースでは命は大丈夫、おそらく、たぶんといった。 「癌・・・かも。」、このとき初めてうすうす感じていた最悪の事態を自覚して、脳に熱いものが流れてくるのを感じながら、 冷静さを懸命に取り戻して動揺を抑えた。「嫁になんと言おうか・・・」。この日は超音波を受け、CT・MRIの予約をして、 画像の結果を踏まえて12月11日に再度診察を受けるということになった。超音波とCTをまた受けるのはお金の無駄だなぁとか、 大学病院の超音波は町のクリニックより安いのは意外だなぁとか、他のなんでもない事を考えてすごした。「まぁ、癌ってことは無いだろう・・・。」

人生2度目のCT検査。気のせいか造影剤が体に入ってくるのが、町のクリニックのときより勢いがあり、かぁーっと体が熱くなる感じだった。

テレビでよく見るのはこれだった。狭いトンネルの中に入っていく奴だ。結構狭い。きっと100kg超の会社の先輩は入らないだろうなぁ・・・などと考えていた。腎細胞癌は画像で判断するのが一般的である。万が一癌であれば癌細胞を拡散してしまうことになるために細胞片採取などの検査はしない。CT検査でも判断できるらしいが、念のためのMRI検査ということであった。

画像の結果を踏まえての診察である。教授の言葉は期待していた言葉とは180度違った。「残念ながら画像のチームは99%悪性と言っている。 癌だね。手術するしかない」。手術では腎臓を1個取ってしまうか、腫瘍の部分だけとってしまうか、どちらかだということを説明された。 2個の腎臓のうち1個をとるのは、腹腔鏡手術で傷跡も小さく、術後も2・3日で退院できるが、40才という年齢を考えると残りの人生で 腎臓1個では不安も残る。腎臓腫瘍の部分切除は同一腎臓での再発リスクが10%程度残るものの、他部位への転移の確率は、全摘も部分切除 もほぼ同じ。ただし、部分切除の手術は開腹手術となり退院まで6・7日はかかるということだった。この日は説明だけで結論は「医局の会議 で諮ることになる」とのことだった。

手術前日ぎりぎりまでベットが開かないだろうということで、事前の検査のため通院した。麻酔医との面談もあった。煙草をやめて2年だが、 本当かとしつこく聞かれた。手術するなんて夢にも思わなかったが、煙草はやめていてよかったと思った。喫煙者は挿管中・後、真っ黒いヤニが 出るそうだ。酸素運搬能力も低く、不利になるといっていた。

はじめて、嫁を連れて診察に行った。教授の説明はいつも落ち着いていて安心だ。「この症例は150以上切ってきました。 命は大丈夫です。4.6cmで発見されてよかった。」そんな言葉で暗い気持ちにならずに済みました。この日、腎臓全摘出か 部分切除かどうするかを聞かれて、部分切除でお願いしたいといいました。教授は説明用紙に腎臓の絵を書いて、手術の説明をし てくれましたが、「この太い血管をクリップでとめるわけですが、間違って切ってしまうと、1分間に3000ccで即死という ことになります」。などと、われわれをほどよくビビらせてもくれた。

30歳台のときでも、多いときは煙草を1日に3箱は吸っていたので、「腎臓癌の原因は間違いなく煙草だね!」といわれ、 念のため肺への転移が無いかチェックのため胸部X線検査を受けた。この時点での喫煙歴は約7500日で、禁煙歴は約750日。

仕事納めは27日だったが2日早く休みに入った。25日は会社帰りに新宿のソフマップで新品未使用の任天堂DSライトを16200円で GETしました。後から考えると在庫一個しかなく、ずいぶん運のいいことだった。おかげで入院中はDSでポケモンをやって過ごすことができる。 このとき、なんとなく会社人間として「手術で入院」などということは、人事査定としてはマイナス印象だろうと思っていた。だから手術入院のことは、 部長・常務のごく一部にしか言わずに休みに入った。本当は27日ぎりぎりに休む予定でいたが「命の洗濯なんだから1 日余裕を持って休め」と、 常務の言葉だった。しかし、もちろん正月明けは何事も無かったように出社するつもり。このことは常務も期待していた。部長は「予後が大事だから 術後は無理せず有給一杯まで休め」というスタンス。私は何より「正月明けは仕事にいけますよ」という教授の言葉を信じていた。この日は、 明日からの入院に備え、家族で巣鴨の地蔵通り商店街まで遠征して、浴衣やパジャマ、T字帯など入院に必要そうなものを揃えました。夜になって、 明日から入院かと思うと、「出血多量で手術中に即死ということもあるよなぁ・・・、もう一度わが家に戻ってこれるかなぁ・・・、 そのときは・・・自分は諦めるとして残されたものは・・・」と不安もつのり、株や貯金、外貨預金、生命保険などのこまごまとした資産状況をノートに 記して、嫁の目に付きやすいところに置きました。それから、「万が一、葬式になったら・・・」と、年賀状の住所録が使えるだろうと、 年賀状を夜までかかって仕上げました。

昨日の昼になって希望の8人部屋(差額ベッド代なし)が空いたと言う連絡があった。この日、小4・小2の子供たちは12月にはいって インフルエンザに交互にかかっていたので、手術前の私にうつさないよう、念のため家で留守番、とりあえず玄関で最後のお別れということになった。 嫁と二人でタクシーに乗る。10時に病院に着いた。受付を済ませて、昼は病院のレストランで嫁と。病室に戻ると、待構えていた担当看護士に明日の 手術の説明をうける。そのとき看護士さんが手術後の状態をかわいいに描いてくれた。夕方から担当医・麻酔医・オペ看と、入れ替わり挨拶や 説明にやってきた。硬膜外麻酔(こうまくがいますい)をどうするか、1000件に一人程度失敗すると下半身不随になるといわれ悩んでいたが、 やるとやらないとではだいぶ違うという麻酔医の言葉を信じ、やはりやることにした。夜は案外落ち着いてゆっくり眠れました。

この日2人目の手術だそうで、12時ごろからと聞いていました。何も食べず、下剤&浣腸。これで痩せるかなぁなどと思いながらいたら、 思わず11時に出発の呼出し。前の手術が早く終わったようだ。嫁に連絡するが、間に合わないかな・・・。手術室の控え室で着替えていると、 嫁がギリギリ着いたようだ。一度、ロビーに出て最後の別れ。必ず戻るぞという強い思いを踏みしめながら、自分の足で施術室に入る。 あれ、テレビドラマで見るようなのと違うなぁ・・・意外に古めかしい部屋だった。「よろしくお願いしま~す!。」 こちらは特に緊張はしていないゾ。 まずは硬膜外麻酔に取り掛かるようだ。麻酔の針を入れるために先に脊椎のあたりに部分麻酔注射をするという。言われるまま背中を丸めた。 紙のような術着の下は裸だ。ここまできたら恥ずかしいなんて気はない。麻酔医は慣れてないようだ。麻酔指導医と二人組み?  部分麻酔の注射針が刺さった瞬間息が止まった。注射器が押され麻酔液が背骨に滲みてくると自然に涙がこぼれた。「亀の産卵か・・・。 もういい。ヤメて帰りたい・・・。死んだほうがいい。」「もっと強く刺して、針が入ってないよ!」麻酔指導医の声が遠くに聞こえる。 「気分はどうですか?」「あ、すこし、ぼーっとしてきました。」「そうですか、それでは全身麻酔に入りますよぉ!」「はい、お願いしま・・・。」 この後は記憶が無い。意識が途切れた。それから6時間経過後「○○さん、ご気分はどうですか?」この言葉が聞こえて意識が戻った。寒いな・・・ ブルブル。ケホっと軽い咳が出たのと同時に腹部に激痛が走った。そうか、手術が終わったんだ。ちょっとでも動くと激痛が走る。 とにかくじっとしていないと。「7時40分です。聞こえますか?」「はい、え?、あれから1時間ぐらい過ぎてる・・・。」 「それでは病室に移動します。シーツごとベット移動します。少し我慢してくださいね、いっせいの・・・(ドン、激痛)」・・・ 意識も途切れながら病室に移動したようだ。9時ごろ。気がつくと鼻から管をとられていた。下半身はエアポンプで揉まれている。 モーター音がうるさい。8人部屋なのにすまん。左腕には点滴がつながっている。わき腹にドレン管があるのか、痛くて身動きも出来ず確かめようがない。 背中には硬膜外麻酔が入っているようだ。点滴のつながった痛々しい左腕は動かせないが、右腕は動かしてもいいのだろうか?  尿管に管が入っているようだ。しかも右向きでももにテープで止まっているようだ。このまま右に曲がってしまうのではないか心配だ。キツイ。  大丈夫だろうか? 右手でテープを少し緩めてやる。こんなに強く固定しやがって・・・。うっ、傷が痛い・・・。だめだ・・・。寝てた方がいい。  12時!。痛い。硬膜外麻酔なんて効きやしない。騙された。我慢できない。右手で呼び出しボタンを押した。「どうしました?」   担当の若い看護士が来てくれた。後で知ったがまだ20歳そこそこだ。だが、このときは自分より年長者のように敬服していた。  とにかくこの人に助けてもらうんだ。「痛いんです」「では筋肉注射しますね。」痛いっ。筋肉注射が痛い。やっぱおとなしく眠っていよう・・・。  だめだ眠れない。2時・・・。看護士が回診。「やっぱり痛いですか?座薬入れますか。」座薬?効くのか?藁にもすがりたい! 「お願いします。」   ところが、これは効いた。よかった痛みが弱くなった。とにかく今のうちに眠ろう。

10時座薬。11時。ベットの周りを歩けといわれた。座薬が効いてる今の内に・・・。ん、なんだ、できるじゃん。あ、やっぱだめだ・・・。 10mで限界! 「若いから回復が早いですよ!」20歳そこそこの看護士たちにおだてられる。もしかしてここは楽園?14時、嫁が花を持って 見舞いに来る。花はいらんだろう・・・。土産はドライシャンプー・・・? いや、痛くてそんな気にはならんし、首も上がらない。介護用の 体拭きシート・・・まぁ、これは使える。替えのT字帯・寝巻き。ヨーグルト・・・ん? そういや、昨日から何も食ってない・・・。 6時、3分粥。ヨーグルトは明日食っていいそうだ。痛いから、とっとと寝よう。あれ?熱が39度。熱いし、痛い! 深夜2時、痛くて目が覚める。 座薬でチラス・・・硬膜外麻酔って管が切れてんじゃねーの?

座薬と朝の痛み止め薬の効きがいい。11時ごろから廊下を2往復。点滴のポールを杖替わりに歩く。ゆっくりゆっくり。わき腹が痛い・・・。 小学校の時のマラソンの後みたいだ。嫁が朝から顔面神経痛だといっていた。念のため東京女子医大の神経科の外来で診てもらう。 無事手術が終わり安心していっきょに疲れがどっと出たか・・・。メールでどうせ動けないし、今日は見舞いはいいと伝える。今日から7部粥、夜は全粥。 夕方から発熱する。38度。痛み止めと抗生物質を飲んで寝る。

起床から調子がいい。100mを5回くらい歩いた。歩いていると「若い、若い」と看護士たちにおだてられる。 ここ東病棟の泌尿器には全体的には年配者が多い。でも、若い患者で深くニット帽をかぶっているのも目につく。抗がん剤治療かな・・・。 おいらの腫瘍は何だったのだろう?病理検査の結果は2週間後だそうだ。しかし、相変らず歩くとわき腹が痛む。 小学生のころは、よくマラソンをするとわき腹が痛んだが、それはマラソンをすると内臓が左右に暴れるから、わき腹が痛むのだという説だった。 大人になるにつれ直ったが、術後のこれも、そのうち治るかな? 先生に聞いても判らないという。昨日の反動でか、嫁は朝から見舞いにやって来た。 顔面神経痛は治ってきたようだ。少し唇が下がっていると本人は言うが、こちらは気がつかない。土産のハーゲンダッツのアイスが嬉しい。 朝も全粥だった・・・粥はもういい。昼は念願のご飯だったが、全部は食べられなかった。そういや便が出ていない。下から詰まってきてるのか、食欲が無い。 嫁のほうは、いったん子供の飯を作るといって帰っていったが、晩飯にはまた病院にやってきた。おいおい子供らはほったらかしで大丈夫かね?  6時の晩飯は・・・そばだった・・・ああそうか、今夜は大晦日か・・・あれ、えー? のびのびだよ、このそば? うぇ、まずい。食えたもんじゃねぇ。 お前も食ってみろっと、嫁にも食わす。いやぁ笑ろた。痛てててっ、笑うと痛い、笑わすな。でも、まずいよぉ。食えねぇだろっ。 病院の投書箱に文句書いて入れといてやる。せめて、コンビニみたいな「ざるそば」にすりゃいいのにね・・・。37.8度・・・微熱・・・。寝る。 深夜2時に目が覚める。座薬が習慣になっている。

午前の回診。尿管を抜いてもらう!これは嬉しい。股間のものが右に曲がってしまわないうちに抜いて貰えて良かった。 抜いた後だらだらもらさないか心配で、すぐトイレに行ってみたが、尿道が広がってだらだらと漏れてくるというようなことは現実にはおこらなかった。 メデタシメデタシ。こうなるとわき腹のドレン管が邪魔だ。歩くときも磨れるような痛みがあるし、抜いてもらいてぇが、今日はだめだった。 しかし、出血が減ってきているので明日には取れるという事だ。こうなりゃ点滴も取ってくれ。おねだりはしてみるものだ。午後の回診で取ってくれるそうだ。 昼飯は大きい海老だ!うーん、ゴージャス。お正月気分。痛みも大分楽になってきた。連続500mは歩けた。嫁は今日もアイスを買ってきた。 もしかして、体重減ってないんじゃないか・・・?夕方、38度。微熱が続く。熱があるので点滴の管は外せないとのことだ。

午前の回診、わき腹のドレン管を外してもらう。絆創膏になった。熱も下がったと激しくアッピールしてみると、点滴の針も抜いてくれた。 これで、かなり患者QOLが向上した。硬膜外麻酔のボトルも中が萎んできており、液はもうほとんど残っていない。午後には麻酔医がはずしに来てくれるということだ。 全部取れた。なにもついていないというのはずい分と楽な気持ちだ。自力で歩いてみる。結構イケルゾ。500mを3本。早速、嫁にメールを打った。 夕方、子供たちを連れてきて、病院で夕食を一緒に食べよう!。手術後初めて傷をまざまざと見た。へその横から肋骨近くのわき腹まで20cmくらいといったところ。 アロンアルファーでぴったりと閉じている。回診の医者たちは「綺麗ですね」というが、よく分からない。午後、看護士さんが髪の毛を洗ってくれた。 シャンプー台が置かれているのだ。美容院みたいに仰向けで洗ってもらった。気持ちいい。明日は嫁にやってもらおう。夕方、37.8度。微熱かな。

そういや今日で6日目。明日は仕事始だ。今日は退院予定なんじゃなかったか?午前の回診で聞いてみたが、微熱の原因が分からないから退院はまだできないといわれた。 念のため、4・5日は休みを取った。500mの往復を1日に4回やった。わき腹が痛い。あとからあとから看護士に追い抜かれる。 これじゃ、西新宿の雑踏は無理かな・・・。まぁ、3連休があるし、9日の出社にはなんとか・・・なるかなぁ・・・。満員電車はむりだろう・・・。 バイク乗れるかなぁ・・・。嫁が見舞いにきた。福島の田舎から電話があって、両親と姉夫婦と甥と姪の子らが、明日見舞いにやってくるといっているそうだ。 無事に腫瘍を取ったとだけ言ってあったが、田舎の総合病院の主治医に腎臓の腫瘍について聞いたようで、取るというのはほぼそういうこと(癌)だと思っているようだ。

両親が見舞いにやってきた。父はS4年生、母はS12年生、78歳と70歳だ。いやぁ、怒られた怒られた。 なにせ、病気になったことを怒っているからしまつにおえない。どうにもならんし、知るかっちゅーの。くどくどのしめくくりに「金はいくらかかっても何とか治してやる」って、 あーた、もう手術も終わってるっちゅーの。あとは予後だけだと、元気な姿を見て、安心して帰っていった。今日も家族でラウンジで夕飯。 仕事始の帰り、部長が見舞いに来てくれた。あらら、こんなはずではなかったのに・・・。夕方、37.5度。微熱かな。深夜2時に目が覚める習慣になった・・・。 眠りが浅い・・・。これではノンレム睡眠にならず。寝る前に摂ったアミノ酸が良好な肉毛となって傷を早く癒すというターザン読んで練ったMY計画がだいなしに・・・。 一日の水分も3.5リットルは摂れるようになった。目覚めたついでにおしっこ・・・。おしっこも軽量カップで測ってトイレのノートに記録する。 おしっこは3.2リットル。その差は汗か・・・。それから計画ばかりが脳を駆け巡り、冴えてきた・・・しかたなく4時ごろ睡眠薬を1粒もらって寝ついた。

いよいよ明日に退院を控えた。売店に行って飲み物補給(3リットル分)、からだ情報館にいって「腎癌のすべて」をメモに移す。いつものようにウォーキングの練習。 前を行く看護士を追い抜こうとするが、500mでわき腹が痛い。階段の上り下りをメニューに加えた。9日から仕事行けるかなぁ・・・。結構、微妙・・・。 まぁ、行って座ってるぐらいはできるが、おいら営業だからなぁ・・・。しかし、地下鉄乗れる状況じゃぁないなぁ・・・。夕方、瞬間最大で、38.1度。 むぅう、これを微熱というのか?

退院のはずだった。朝のトイレの鏡の前で、松田優作風「何じゃこりゃ!」 暗い色のパジャマだったが傷口のあたりがどす黒く濡れている・・・。 血? 正確にはトマトジュース色の膿だった・・・。どこから?ベットに横になると、医者が傷口を開いてゆく・・・。やめて。本能的に開かれたくないと思った・・・。 へその横を3cmほど開いた。手術の合併症で創部感染と告げられた。膿は病理検査に。退院は?助手の医者が答える。「もう少し先ですね。」 どのくらい?  「まぁ、一週間とか、二週間とかいう感じですかね・・・。」 これはガツンときた。部長にメールを打つ。日曜だというのにすぐに返事が来た。 有給が20日くらいあるから、ゆっくり休んだほうがいいと。脱力した。開き直った。傷口は開いてる→血膿は出ている→ワイシャツ着れない→営業できない。 ここは治るまで休むか・・・。まてよ、再縫合ってできないのか? 感染してるから、また開く可能性が高いらしい。待ってれば傷が閉じる。時間はかかるが。 まぁ、有給休暇があるからいいか。夕方、37.9度。

ひまだぁ。一日ガーゼの取替え一回の治療。後日知ったが、包括評価の医療費が1日5千円・・・。たかっ。体温Max36.8度。微熱の原因は感染だった・・・。 菌は表皮ブトウ球菌。ふつうに皮にくっついてるやつだ。風邪の抗生物質を摂り続けていたので、抗菌力がなかったらしい。100例で1・2例とか・・・。 呪われている。そうか、今年は本厄だ。退院したら御祓いに行かなきゃ。

朝っぱら会社に電話した。出社を期待していた常務に挨拶。まぁ、「治るまでゆっくり休んで来い」と、ここは、ゆーしかないか・・・。あとは一日ゆっくりDSでポケモン三昧。 熱37.3度。見舞い3人。

散歩、日向ぼっこ、読書、DS。熱37.1度。見舞い4人。

教授の回診。手術後、正月休み明けの回診。会う予定では無かった患者。助手の説明で常在菌による手術部位感染と告げられた。 再縫合はと教授が聞くと、助手たちが必要ないと答えた。「とにかく腎臓の腫瘍のほうはきれいに取れているからだいじょうぶですよ。」 やはり教授の言葉は、いいところを突いて来る。 嫁にこの話をしたら、手術の終わりごろ教授が取れた腫瘍を見せに来たといっていた。嫁の見たそれは、白っぽかったとな。スーパーで売ってる白モツかいっ。

初の「外泊許可」。嫁が朝早くに病院までタクシーで迎えにきた。なんという過保護。なんという無駄遣い。しかし、タクシーに乗っていても開いた傷口が擦れて痛い。開いたところからさらに裂けそうだ。エンジンの振動が傷口に悪い感じ。

10時には病院に戻る。傷口を生理食塩水で洗われる。このときガーゼでごしごしされるのがつらい。医者は傷口をシャワーでよく洗うようにと簡単に言うが・・・。いやぁ・・・自分じゃ、無理でしょう・・・。

シャワーで傷口を洗ってみる。水圧をかけるので精一杯だ。痛くは無い。おなかの中は神経が無いらしい。37.3度。洗い足りんか・・・。

熱36.8度。お見舞い3人。

外出して新宿通りのさくらや(2月弊店)にドラクエモンスターズジョーカーを発見。他店では売り切れなのに、うーん、寂れた店は一味違う。お見舞い3人。

雨。さっそくDQM三昧。

シャワーで傷口洗うのが慣れてきた。このころから退院の話が出るようになった。ベット担当医がしきりにシャワーで洗えるか聞いてくる。

本日のお見舞い3名。体温max36.4度。歩いて馬場下の大学時代に通った喫茶店まで遠征。

朝飯食ってから自宅で外泊。タクシーも大分楽になった。

傷はぱっくり開いたまま、24日に退院の予定となった。

病理結果の結果が出た。3.8cm×4.0cm(t1a、ただし、切り取った細胞は縮むらしいので画像での4.6cmと思ったほうが良いらしい)、 淡明細胞癌でG1<G2、リンパ節転移等はなく、きれいに切除されているということでした。 やっぱり癌か・・・というショックはあるが、この病院での10年生存率はとても優秀だといい聞かせて、とにかく今は治ったんだという喜びを噛締める。

明日午後退院の予定で医師と話していたが、看護士の間では午前中にすりかえられている。その手の話へのクレームはまず意味が無い。とにかく午前中にベットを空けてラウンジで待機せよという。終わり方が悪ければすべて悪く思える。この辺のいやらしさには憤怒する。よく考えたら、外来なら一日210円の治療費のところ、包括評価治療費で一日5000円も払ってるいい客なのに・・・。それに風邪薬の抗生物質とて、同病院がくれた物で、その服用のせいで手術部位感染という合併症が起こったというなら、病院の過失ではないのかい? まぁ、しかし、本当に手術待ちで困っている他の患者さんがいるには違いないだろうと思って、明日の朝で退院することにする。

退院。妻が菓子折りを買ってきた。担当医が通りかかったので、それ渡してみろと、けしかけたら、医師はこころよく受け取ってくれた。ともあれ、お世話になりました。傷のケアのためにしばらく週2で通院することになった。結局会社のほうは、今月いっぱい休みを取った。(泌尿器科か形成外科か・・・創部感染症編に続く)